YOGAS CHITTA VRITTI NIRODHAH
パタンジャリ・マハリシによって記されたヨーガの根本経典、「ヨーガスートラ」の一文であり、そのスートラ(スートラ…糸。糸のように紐解いてゆく)すべてをあらわすのがこの言葉である。
YOGAS CHITTA VRITTI NIRODHAH
「心の作用を止滅させることが、ヨーガである」
つまり、心があちこちに動き回ることなく、静かに澄んだ水のように落ち着いていることこそヨーガである、という解釈になる。
TADA DARSHTUH SVARUPE VASTHANAM
「そのとき自己はそれ本来の状態にとどまる」
日本人には少し理解しにくいのだが、インド哲学では心と自己(本来の自分)というのは別のものであると考えていて、心の動きが静まり、完全にコントロールされたときに、本来の自己があらわれると説かれているのである。
そして、わたしたちはこの本来のシンプルな状態、サマーディ(三昧)にいつでも自分のコントロールで入れるようにするために、アサナやプラナヤマや瞑想を続けているわけである。
ただ、この苦もなく楽もない状態というのが、私のような一般人にはなかなか難しく、どういう状態なのかもあまり想像できずにいた。
先日、滑落して一命をとりとめた友人と話をしていて大変興味深いことを聞いた。
彼はヨーガを行じているわけでもなく、まったくその心得もないのだが・・・。
「山で足を踏み外した瞬間、まっすぐに自由落下がはじまった。 (100メートルの滑落だから長かっただろう)
その瞬間、それまで胸にあったいろいろな思いは、雲が風にとばされるように一気に吹き飛んで、とてもシンプルな感覚だけになった。
意識ははっきりしていて、ああこのまま岩にたたきつけられたらそれが最後だろうとただ認識のみがある状態だった。
苦もなく楽もなく欲もなく、そもそものとてもシンプルな状態というのは言葉ではうまく表現できないけれど、ただ認識のみがある、そんな感じ。
そして、数秒後に激しい衝撃とともに大地にたたきつけられて、激しい痛みを味わったときに『生きなくては』という欲望がゆっくりと心に戻ってきた。
みんな死ぬ間際に走馬灯のように愛する人やものが浮かんでくるというけれど、自分は実は逆でとてもシンプルな状態になったよ。
あのなんともいえない感覚をもう一度味わえるのかな」
彼がおおいなる力に生かされて、垣間見ることになったこの状態こそヨーガのめざすサマーディではなかったのかなと大変興味深くこの話をきいた。
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