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2009年9月11日 (金)

リトリート番外編  精霊の木

Nec_1313「このあたりの人はみんな精霊が住んでいるという木があるよ」と海癒のみつさんに教えてもらって前回見に行ってきた精霊の木。

たしかに私もああここにはなにかがいるなあと濃い生命の気配を感じたところ。

今回最終日の自由時間、海遊び組と精霊の木組に分かれ、私は海遊び組へ。
ちょうどビーチからあがって海癒にもどろうかと歩いていると、興奮気味の精霊の木組が帰ってくるのにばったり出会った。

「手にびりびり来ましたよ!」とIさんをはじめ、みんなが口々に語る。
いやあ、やっぱりこれだけたくさんの人が感じるってことはものすごいエネルギーなんだろうな。

大岐の浜はとても生命の気配が濃い。
空気も風も独特の濃さがある。
生命の気配が濃いということは、死の気配もとなりあわせだということ。
私が大岐の浜に入っていた数時間後、ベテランのサーファーが同じ場所で事故で亡くなった。
たしかに最終日は普段とは明らかに違うおかしな三角波がたって、沖への巻きだしはとても強かった。
ご冥福をお祈りします。

でも私は生も死もこうやって身近に感じられるところで大地に足をひっつけて感じることこそがヨーガだと思っている。
ポーズとかそのあとに来るもので、まず自分がこうやって生かされているのは奇跡的な偶然の連続なんだと感じることこそが大切だと。
思いがけない病気や怪我をしたとき、雪山や沢でひとつ間違えればいつでも死んでしまう瞬間。
そんな生と死が隣り合わせだということをきちんと感じる場が、守られた都会のスタジオにはない。
口でいろいろ言う前にこういう場にみんなを連れだせば、頭が感じる前に本能がそれを感じとってくれると思ったのだ。
「楽しい」のすぐ横には「怖い」もある。「生命の気配」のすぐ横に「死の気配」。
本能がかきたてられる場では人の身体能力もとても強い力を発揮する。
スタジオの中でピョンピョン跳んで、強制的にクンダリーニを発動させなくても、雪山や波にもまれているとき「生きなくては」と感じれば人の底力というものは発動するのだ。

スタジオにいるみんなを外の光のなかへ連れ出すことがわたしの楽しみであり、夢である。

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コメント

いつもながら興味深いblog、ありがとうございます。時に、生と死は等価ではないかと感じる場所や空気…若しくは、視野に自分が位置していると感じることがありますよね。ある先住民族の方々には「死にかけている生」という理念があるらしいですが。それぞれの命は独自の時間…「現在の連続」を生きてますが、この種の感覚を感じる場所で過ごす時間は大切にしたいものですね。またお会いできれば…嬉しいです。

投稿: くりぼう | 2009年9月11日 (金) 20時38分

お産も生と死がとなりあわせにあると今日のお話しの中にありました。

投稿: K | 2009年9月12日 (土) 00時01分

くりぼうさん
きちんと響きますね、くりぼうさんには。こういうことって言葉にしなくても、わかる人はきちんと本能で日常からも感じ取っているんです。
おしゃれヨガウェアを着こなしてスタジオにやってくるヨギーニに説明するのは至難の業ですが。
そうそう、今回月や太陽の下でヨーガの瞑想のときにシンギングボウルをさわると、すーっとすぐに音が出てとても楽しそうに歌い始めました。
ボウルも生きている?

投稿: MARI | 2009年9月12日 (土) 07時23分

Kちゃん
お産の家のお話一緒に行きたかったな。
このごろヨーガに対するわたしの考えはますます広がってきています。
ヨーガ(つなぐ)って大地とも他の生命とも紡ぎあう架け橋のような気がします。

投稿: MARI | 2009年9月12日 (土) 07時29分

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